may’s blog

20年いたヅカ沼を抜け出したと思ったら、図書館経由でV6沼に転がり堕ちた人。そして今はバレーボール熱が再燃中。

『TERROR テロ』@紀伊国屋サザンシアター

参審員として裁判に立ち会って(=観劇して)、いろいろ思うところがあったので覚書。観劇記録や感想ではなく、自分がどう考えたのかを書いて整理しようとしたものです。

 

www.parco-play.com

 

~本裁判の内容~
2013年*17月26日、ドイツ上空で民間旅客機がハイジャックされた。犯人であるテロリストたちは、7万人が熱狂しているサッカースタジアムに飛行機を墜落させて多数の命を奪うと共に、世界的なニュースになることを目論んでいた。しかし、緊急発進したラース・コッホ空軍少佐は、独断でこの旅客機を撃墜した。

 

乗客164名の命を奪って、7万人の命を守ったコッホ少佐の行動は有罪か、無罪か?(公演HPより)

 

↓ヒントになるかもしれない、ドイツの航空基本法

http://www.ndl.go.jp/jp/diet/publication/legis/223/022302.pdf

 

 

私は悩んで、結局無罪に投票。無罪と考えた根拠は以下の通り。

 

  • 乗客164名の命が助かる確率は低かった。

 乗客がコックピットに突入しようとしていたことが、マイザー氏から夫人に向けたショートメッセージでわかっているが、撃墜した時点で突入前だったのか、突入(しようと)して失敗していたのか、もしくは突入が成功してテロリストを制圧していたのかはわからない。少佐が撃墜したのは、スタジアムに墜落しないギリギリのところ。中の様子は見えず、コックピットから無線の応答はなかった。

 

 より多くの確実に助けられる人命を優先しようという考えは、正しくはないけれども間違ってはいないと思う。
  
 ただし「飛行機に乗っている時点でテロの道具となりうることを容認している」という少佐の意見には同意しかねる。

 

  • 少佐が有罪となった場合の今後。

 今回少佐が有罪になってしまったら、今後はハイジャックされたら墜落するのを見守るだけということになり、そのような国家と認められたら、ますますハイジャックが増える可能性がある。

 

 犯人以外が乗っている旅客機の撃墜は許可されて良いとは思わないが、現時点では撃墜以外にハイジャックされた旅客機に対抗する手段がない(まず、ハイジャックされないようにするのは当然ではあるが)。憎むべきはテロリストであり、テロの被害をおそらく最小限にとどめた少佐を有罪としてよいのか。

 

 勿論、少佐が164名を「殺害」したことに間違いはないので、その点については責めを負わねばならないと思う(少佐はその責任について理解していると思われる)。

 

 そして、国防大臣(代理だっけ?)(=軍)が撃墜命令を出さなかったことについては、深く議論されるべきである。撃墜は人道に反するとして違憲とされていたことは事実であるから、撃墜させないとした軍の判断自体は間違いとは言えない。しかしスタジアムの観客を避難させられる時間があったのにさせなかったのは、7万人の観客がいれば少佐は命令に背いて撃墜すると、軍は確信していたということにほかならない。もし避難させることになっても、パニックになった7万人を本当に15分で避難させられるのか。また、その様子が上空のテロリストから見えたとしたら目標地点を変更するかもしれない。だからこそ避難させずに・・・と。軍が少佐個人に責任を押し付けたのではないだろうか。

 

 

私が観劇した回(1/26、19時)は38票差で有罪。東京公演では有罪無罪が半々。

 

  • 人が人を裁くことの重さ。

  「有罪。被告を無期懲役とする」という言葉を聞いた瞬間、とても怖くなった。観劇中、膨大なセリフを聞き、そして投票するまで、考える時間は長くはない。架空の設定ではあるけれど、実際にこうして人が人を裁けてしまうことが恐ろしい。

 

  • 海外ではほぼ無罪。日本ではこれまでは多数が有罪。

 日本は「爆撃」にマイナス感情が大きいことと、ヨーロッパほどテロの脅威にさらされていないことが要因かと。

 

  •  自分が搭乗していたら。

 もし自分が搭乗していた飛行機がハイジャックされて撃墜されるとしたら・・・自分の命が助かる可能性がないのであれば、できるだけ他者は巻き込みたくない、テロの道具にはなりたくない。実際、もし自分たちがテロリストを制圧できたとして、でももう飛行機は墜落するしかないとなった場合、少しでも被害が少なくなるよう、何もない場所に墜とそうとするのではないか。
 
 勿論それが自分たちが選んだ最善の道としての墜落なのか、守ってくれると信じていた相手に一方的に撃墜されたのか、という違いは大きい。

 

 でも爆撃されて墜落して、しかも遺体を回収できないほどの状況になることを考えれば、案外本人的には死に向かう苦しみはそこまで長くは続かないのかなと・・・。現段階で特に自分が生きねばならない理由のない私にとっては、どちらにしても死ぬのであれば、撃墜されること自体はそこまで悲観することでもない気がした。あくまで私は。これは本人の環境、そして死生観や宗教*2などによるかな。

 

  • 自分の大切な人が搭乗していたら。

 ピンとこないので、もし自分がマイザー夫人だとしたら・・・。台詞で何度も言っていたように、マイザー氏がコックピットに突入できていたのかを知りたい。突入した上でテロリストを制圧できず、被害を最小限にするために撃墜されたのなら、「名誉の死」としてどうにか自分を納得させられる。させるしかない。そこを不明とされているから、撃墜されず突入できていたら・・・と恨んでしまう。いっそ嘘でもいいから「コックピットに突入したけれど、テロリストを制圧できなかったようだ」と言ってほしかった。

 

 少佐が有罪判決になったら・・・。夫を殺した犯人が有罪となれば、その時は溜飲が下がるし、おそらく遺族への補償も大きいだろうから、これから子供を育てていく経済面では助けになる。しかし有罪=撃墜は以降一切できないとなれば、自分と同じような遺族は減るけれども、テロによる甚大な被害が増える可能性がある。そうなったら夫は無駄死にとなるのではないか。

 

 ・・・でも無罪になったら・・・
 
 彼女は判決が出る前に法廷を去っている。結局は判決がどちらであれ、夫が帰ってこないことに変わりはない。この後も生きていかねばならない人たちの心を少しでも救える方法はないのか。 

 

  • 命の重さ。 

 状況は全く違うけれども、3.11で寝たきりのお年寄りを助けようとした消防団員たちが津波に飲まれて亡くなったという話を聞いて、正直、残りの命が長くないであろうお年寄りを助けるために、まだまだこれから生きる時間を持っていたであろう若い人たちの命が奪われたことが残念だと思った。つまり私は、他者の命を無意識に天秤に掛けていた。

 

 けれど消防団員の家族の方は「そういうことがあれば真っ先に助けに行く人だから仕方ない」と。実際、お年寄りを見殺しにしたらその人は一生後悔しながら生きなければならなかっただろうし、巨大な津波が来るとわかっていたとしても、助けに行くという選択肢しかなかった人なんだと思う。

 

 命の価値の優劣は他者が決めるものではないし、その重さは常に平等であるべきである。

 

 

自分の中の現段階での結論は、やはり無罪かなと。

 

それはあくまで「(164人を殺した)殺人罪」というものに対して、「無罪」か「有罪」かしかない中で、「有罪」とは言い切れないという意味、そして全責任を少佐が負うべきとは思えないという意味で「無罪」。命令を無視した、という点については「有罪」といえると思う。ただ、少佐は「その命令を2回聞き返した」と言っているように、軍としてはそのような場合は撃墜するのが当然という考え方だった。要するに、軍が責任を少佐に押し付けたと言える。彼がもし撃墜回避の命令に従っていたとしたら、後々軍の中で彼は消極的に抹殺されたのではないだろうか。軍は違憲であったとしても撃墜命令を出し、その上で少佐個人ではなく軍が裁かれるべきだったと思う。

 

検察官は「個人のモラルや良心ではなく、憲法によって判断されるべき」と言っていた。それももっともだと思う。けれども、そうとは言い切れない場合もある気もする。明確な正解不正解だけでは割りきれない、とても難しい問題。

 

なんというか、観劇というより本当に裁判に参加したような、とても良い体験でした。これから原作を読みます。

 

*1:上演では2017年。公演日前年の設定?

*2:ちなみに私は明確は信仰はないけれど、環境的に仏教寄り。